専ら自身の書き留めたいことを展開しており、答えはあるようでないような問答を繰り返している。続きとなる話を展開していきたい。
2,3歳の時の記憶上のことで、両親に指摘をされて初めて、あの時の出来事は「○○だった」のかと、結論づくことが何度かある。それの一つに、曽祖父の葬式や、祖母に連れられた旅行がある。これらは、覚えてはいるものの、映像として克明に残っているというよりも感情が先行して存在し、映像は夢か現実かも区別がつきにくい形で、なんとも名付け難いようなものであった。大人になって、その年齢の時にその出来事があったと教えられて初めて映像が事柄と結びつくという不思議な感覚であった。
アリソン・ゴプニックというカリフォルニア大学の教授が『哲学する赤ちゃん』の中で幼い子どもの思考について次のように書いている。
「赤ちゃんにとって、思考というのはあくまで外界からの刺激によって引き起こされるものである。内的な世界で自発的に何かを思考するなどというのは、彼らの理解を超えた芸当だ。」
また、彼女の言葉を借りると、外界の特定の場所、特定の物に自分の意思で注意を向けることが出来るから、大人の意識は「サーチライトのようなもの」であり、それに対して、外界を全方向的に照らすようであるため幼い子どもの意識は、「ランタンのようなもの」である。
生後18ヶ月までは、自己認識がないと言われており、私が2歳のときに覚えている光景は、ランタンのように全体を柔らかく照らしだすような映像で、そこには自分という自我が大きく顔を出す以前の感覚だったのかも知れない。
この経験は西田幾多郎が提唱する「純粋経験」に似ている。
西田は認識する主体と認識される客体というデカルト的な二元論を乗りこえるために、「純粋経験」という概念を考案した。主体と客体は抽象化にであるが、実際に我々にもともと与えらえた直接的な経験には、主体も客体ない。経験の根源である「純粋経験」に立ちもどらなければ、真理は見えてこないと、西田は言う。
ランタンのような純粋経験とは反対に、大人になるにつれ分析的なサーチライトのような意識の動きが発達してくる。自身の動きを分析的に観察てみると、自分が何故、今、右を向き窓の外を眺め、そして左手で髪をかき分けたのか、そして文章を打ち始めると左足で貧乏ゆすりをし始めたのか、全くわからない。真理というのは円環構造のようであり、有って無いような、禅問答のような境地なのかもしれない。
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