好きなことがわからない

好きなことが何かわからない。

そんな東大1年生と昨日お話する機会を得ました。

 今となっては、自分の趣味や好きなものも徐々にはっきりとしていますが、未だに自分とは何かもわからなければ、好きでないことも好きになるかもしれないとすら思うのです。

 そうそう、大切なのは、自分が一つの自分ではなく、たくさんのわたしが存在することを認めることなのではないかな。ステイホームしている時の自分、学校の自分、職場の自分。居場所が変わるだけで声のトーンや相づちの大きさが途端に様変わりするでしょう。

 それは、その場という環境に自分がアフォードされている。つまり、環境に合わせている自分がいるということ。関係線の引き方によっても多様な自分が現れるはず。そして、それはいつでも変更可能。

 私の母は神社好きで、その影響か、家族での旅行は神社が多く、自然と神社好きになっていました。寺より専ら神社派でした。その理由は内発的なものよりも外的な要因がとっても大きいと思います。ですが、寺も神社も元々は一緒。神仏習合な事実を知り、白山比咩神社ももとを辿れば寺としての側面もあったり、いやいや、もっと辿れば原始宗教的な側面もあったり。一つの信仰に関しても見方は多様なんですね。「わかる」というのが「かわる」きっかけに。今では寺も好き、そして、寺や神社の建築も好き、特に寺の「てりむくり」なんてたまらない。

 

 好きなことがわからない。

 それは大いに結構。

 ですが、思い出すと飲み物は何をよく好むのか、衣服はどんなものを来ているのか、ペンにはどんなこだわりがあるのか「ツール」から自身の趣味趣向を見つめることから初めてはどうでしょう。そういった選り好みは既に3歳ごろから自然にし続けています。人間てそんなものでしょう。

 自身の興味関心に注“意”を向ける、それももっと細かく。物語が多く潜んでいるはずです。そして、案外好きな理由に答えなんてないんでしょう。

 

 

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