格差とわたしの問題

社会的な健康

 そもそも健康格差とか、教育格差、「格差」問題に関心が湧いたのは医学部5-6年のときだった。適切な診断が下れば、患者さんの生活は豊かになりうると信じており、それに関しても現段階ではゆるぎはない。その一方で、診断された病気が治るとは限らない。現在の死亡原因、悪性腫瘍、心疾患、脳血管障害等々の根本的な原因は糖尿病、高血圧等の「生活習慣病」である。

 社会全体を見渡せば、「生活習慣」の病だらけなのだ。医学部6年生で本格的に医療現場に入って初めてその事実を目の当たりにして、その後台湾とハワイに留学にいった。社会が変わると患者さんの見え方も変わる。特にハワイ、アメリカでは医療費が高く、受診を控える行動を取るため、多くの方は重症の状態で運ばれてくることが多い。ホームレスといった事情も、重く各人の健康問題にのしかかる。

 このときに、日本で生まれ育ったことを恵まれたこととして感じ、尚且、健康の社会的決定要因ということを実感するに至った。

健康の社会的決定要因

 それは、海外のことでしょー?なんて、大間違い。日本には日本の問題があった。社会格差、ストレス、幼少期、社会的排除、労働、失業、ソーシャルサポート、薬物依存、食品、交通などが大きく取り上げられる要因である。

 世界保健機関(WHO)は、2005年には、健康の社会的決定要因の委員会を立ち上げ、2008年に最終報告を出している。そこでは、社会的決定要因に対する行動で健康の公平を実現し、この一世代で格差をなくそうと呼びかけて、次のように3つが提案されていた。

1.日常生活の状況の改善

2.権力,金銭,資源の不公正な分布を是正

3.問題の測定と理解、行動の影響の評価

「格差」を何故無くす必要がある?

 正直にいうと、格差は無くなったほうがよいですか?と、問われると、「はい、そう思います。」と回答をしますが「何故ですか?」と、問われると難しい側面もある。

 格差による「健康の不平等」や「生まれ」による選択肢や可能性が制限されることは自信もって解決するべきだと言える。かといって、同質へ向かう社会は違和感は感じる。多様性を認めつつ、「差」があって当然だが、「格差」は宜しくないという一見矛盾する答えとなってしまう。

 菅首相は「自助」を最も大切なこととしている。うむむ。よくわかるのだが、そもそも「自助」するためには、下地となる基盤が出来上がっていないと難しいのだよな。そして、「自助」能力ですら、これまでの教育背景や、親の社会経済的地位の影響をうけていたり、「自助」とは何なのか、「私」とは何なのかと突き詰めたくなるのであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください