どうも研修医一年目の華岡です。
昨日今日と東京で研修があり、忙しい日々でした。
今後とも付き合いが続きそうな良い仲間とも出会うことができ収穫の多い研修でした。
さて、昨日は弁証論治と方相証対の話を書きました。
1.何故、日本では方相証対が発達していったのか
2.明治時代の漢方の衰退と復興について
3.金沢という土地に対する印象
について書いていきたいと思います。
3番目はおまけです。笑
方証相対が発展した歴史
方相証対を説明する際に欠かせないのは江戸時代の漢方医の吉益東洞です。
「傷寒論」(下に傷寒論の説明有)を重視し、中医学の理論の根幹となる陰陽五行説さえも観念論として排斥しました。
東洞が30歳の頃「万病は唯一毒、衆薬は皆毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去って体佳なり」と万病一毒説を唱え、
すべての病気がひとつの毒に由来するとして、当時の医学界を驚愕させました。
そして、各医師たちは東洞の影響を受け、万病は一毒であるとし、病理学の部分をブラックボックスとし、
自分だけの理論や経験を入れて運用するようになっていきました。
日本での漢方の衰退と復興
ですが、日本漢方は明治時代に入り衰退していきます。
その理由として、以下のようにツムラのHPに記載されていました。
1872年、明治政府は、学制を制定し、西洋医学中心の新しい教育制度を整えるとともに、1874年には医制を制定し、西洋7科に基づく試験制度、医業の開業許可を制度化した。
明治政府は1883年、太政官布告により、国家試験に合格しなければ医業開業の許可を与えないとする医師免許規則を制定。
これに抵抗して浅田宗伯らが政府に提出した漢医継続願も、1895年の国会第8議会で少数の差で否決された。
漢方医学はこれにより、断絶の危機に瀕することになる。
by ツムラのHP
こういった状況で日本漢方の復興を担ったのは金沢大学出身の湯本求心です。
1927年には湯本求真が『皇漢医学』を出版し、中国語でも翻訳書が出ています。
「漢方医学中興の祖」「東西医学融合の先覚者」と称えられています。
金沢という土地
わたしは金沢大学出身であるから、金沢大学ご出身の活躍されていた先生を知ると大変嬉しいです。
金沢といえば、古今が混在する街だなとつくづく思います。
この湯本先生が活躍したあの時代では、ちょうど西洋医学の旧制医科大学が設立した時代であり、金沢もその一つです。
その西洋医学という時代の最先端を行きつつ、湯本先生のような漢方に意義を見出し、古きも大切にする文化です。
最近でも、現代アートのj美術館として21世紀美術館が全国的にも有名になっていますが、
あのような先鋭的なものがある一方で、工芸の街としてたくさんの職人さんが金沢を盛り上げています。
これらの例のように、一見相対立するものを上手に融合して取り入れるのが実はうまいのではないかと思っています。
前田藩が外様大名として100万石を達成したように、金沢にその発展を再来する流れが今来ているのではないかと感じています。
その理由なども追々、記事にしていければいいなと考えています。
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